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項羽と劉邦から学ぶ "人間力としての真のリーダーシップ"とは? ① 〜時代背景と2人の生い立ち〜

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はじめに

高祖《こうそ》劉邦《りゅうほう》は、今から2200年以上も前の紀元前202年に中国の漢王朝を築いた人物です。東アジアにおいて、100年以上続く王朝を建設した創始者の中で、高祖劉邦ほど謎の多い人物は存在しません。

『中国の長い歴史の中で無名の農民から身を興して王朝を建設したのは劉邦以外にはいない。他に明《みん》の太祖《たいそ》朱元璋《しゅげんしょう》 があり同じく卑賎《ひせん》の出ではあったが、しかし朱元璋の場合、流浪の托鉢僧《たくはつそう》として多少の文字があり詩文を作ることが出来たが、劉邦という男はそういう余計なものを持たず、この大陸の土俗の中から生まれ、土俗という有機質を育ちの良さや教養で損ねたり失ったりすることなく身に着け、文字通り裸のまま乱世の世間に出た』

このように、一見何の取柄もない男が天下を取ったのですから不思議というほかありません。
現代の民主主義において、政治家として必要なものとして、3バン(地盤・看板・鞄)が必要と言われています。
 ・地盤とは組織
 ・看板とは知名度
 ・鞄とは資金
この3要素で、同時代に覇権を争った項羽《こうう》と劉邦を比較すると、どの角度から見ても圧倒的に項羽の方が上です。
劉邦は、農家の末っ子の三男坊で40歳を超えているのに、実家の農家の仕事も手伝わず、町をブラついていただけの遊侠の徒でした。遊侠といっても大きな組織を持っていたわけではなく、仲間が少し居ただけで組織と呼べるほどのバックボーンは存在していません。当然、知名度はゼロというよりも、地元では"ごろつき"のような生活をしていた為に、著しく評判の悪かった人物で、知名度はむしろマイナスに近い状況でした。
資金は常にゼロで、酒を飲んでも金を払わず勘定を踏み倒すか、子分が勝手に支払ったりして、1回でも自分で支払った事が無かったと言われています。
更には、個人的な戦闘能力もなく、文字も書けないような教養の無さに加えて、礼儀作法もゼロ、作戦力や勇敢さといった面を見てもそういう能力はほとんどなかったと言われています。

一方の項羽は、秦の始皇帝によって滅ぼされた国である"楚《そ》"の貴族の項氏という、軍事に携わっていた名門の出であり、楚だけではなく、中国全土において、項氏は知名度抜群のものでした。項羽自身は劉邦とは違い、当時20代の精悍な若者で、大きな体格を持ち、戦闘においては常に先陣を駆け百戦百勝の常勝将軍です。
アレクサンダー大王、チンギス・ハーン、ナポレオン、日本でいうと源義経と並ぶ軍事的天才でした。項羽に対する部下の宗教的信仰心は高く、劉邦とも何度も戦っていますが、最後の戦いまで、一度たりとも負けたことがありません。
秦の滅亡後、この項羽と劉邦が覇権を争う事になりますが、個人的能力や資質面の比較ではどう見ても項羽の方が上であり、皇帝になる条件を揃えていたと思います。
今の時代に置き換えてみれば、営業力(軍事力)、資金力、組織力、家柄、学歴、教養、そのどれをとっても項羽の方に軍配が上がるといえる状況でした。
にもかかわらず、何故、項羽は劉邦に負けたのか?何故、劉邦が漢帝国を築くことが出来たのか?
そこにはリーダとしての人間力に差があったと言われています。
今回は、中小企業経営者にとって、非常に大切だと思われる『人間力としてのリーダーシップ』について、項羽と劉邦の生き様を参考にしながら
 "真のリーダーシップとは何か?"
 "人の上に立つとはどういう事なのか?"
 "人望の真の源泉はどこにあるのか?"
を皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
項羽と劉邦の事をあまりご存じない方も多くいらっしゃると思います。
詳細は『項羽と劉邦』(司馬遼太郎著 新潮文庫)を是非ともお読み頂きたいと思いますが、ご存じない方にもご理解いただけるよう、本題に入る前に、まずこの時代について少し予備知識として触れさせて頂きます。

Chapter1 時代背景と歴史に登場するまでの2人の生い立ち

◆時代背景
「古来、中国大陸では諸方に王国が割拠し、つまりは分裂していました。分裂こそが常態であり統一の方が異常であったのです。そして春秋戦国時代を経て、紀元前221年に秦《しん》の始皇帝《しこうてい》が他の六国を滅ぼし、中国全土を統一しました。
秦の強みは、もともとの秦の領土が中原《ちゅうげん》(歴代王朝が拠点を置いた黄河下流領域)よりも西北に在り、今のチベットやモンゴルに近く、その領民の大半が半農半牧の非漢民族国家である関係上、西方から伝わってくる鉄などの冶金がうまく、武器や農機具に優位性がありました。そのため他の王国よりも、生産力と軍事力が大きく上回っていたと言われています。
その生産力を基盤とした圧倒的な軍事力で、中国全土を統一してしまいます。
天下(中国全土)を統一した始皇帝は、2つの大きな制度改革を断行します。

(1) 中央集権国家体制の確立 (封建制から郡県制への移行)
王国時代は封建制といい、国に王がいて貴族もいました。貴族が自分の領土を統治し、王はそのまとめ役として、いわゆる組合の理事長のような役割で国をまとめていました。
それに対し始皇帝は、皇帝がすべての土地と人民を保有・支配する郡県制を取りました。
王や貴族を全て廃止し、土地と人民を取り上げ皇帝の所有物にします。但し、それでは5000万人を超える人民を統治できない為、精密な官僚組織の網の目を敷きます。以前の王国に該当するのが郡であり、王に該当するのが群守という官僚で、貴族に該当するのが、郡の下に置かれた県の県令です。現代の日本と違って、郡が大単位で県が小単位となります。
いわば、郡守や県令は"カネで雇われた王や貴族"で任命制です。郡や県の土地は、当然、郡守や県令の所有物ではなく、全て皇帝の所有物となります。郡守や県令は、皇帝の命令通りに、税を取り立てたり、労役人夫を集めねばならず、少しでも怠りがあれば、一通の辞令で左遷されたり刑を受けたりする存在でした。

(2) 法による支配
今の近代国家では、法は当たり前のことですが、この紀元前の時代にきちんとした"法"は存在していませんでした。それまでは、いわゆる慣習で何となく民が統治されていましたが、始皇帝はその"曖昧さ"をすべて否定し、法による厳格な支配体制を築きます。皇帝だけがこの世におけるただ一人の権力者であり、皇帝の下に万民が直接ぶら下がり、皇帝以外はすべてフラットな人民で、法で縛られる存在だという"超文鎮型"の組織体系となりました。(そこに平等という概念があったかどうか分かりませんが)
そして皇帝以外の万民は、法によって刑罰や徴収、労役などすべてを強制される存在となりました。

人民にとっては、あまりにも急な国の制度の変更であり、法も網の目のように細かく、労役は想像を超える厳しさで、始皇帝が死ぬと各地で反乱が起き始めます。
飢えた農民などが武器を持って立ち上がり、郡守や県令などの官僚を殺して、郡が保有している穀物の倉を奪って食を得ます。奪った食料を食い尽くすと、流民化し、別の県などの官営の穀物倉を襲って奪い、各地で奪い合いが始まるのです。奪った食料を分配する時、リーダが必要となります。リーダの重要な役割の一つは"分配"にありました。群衆はリーダに強権を持たせて公平な分配を期待します。その公平という感覚は当時"徳"と呼ばれていました。

『(リーダである)大小の英雄豪傑というのは流民から推戴された親分を指す。親分=英雄=は流民に食を保障することによって成立し、食を保障できないものは流民に殺されるか、身一つで逃亡せざるを得ない』

強い流民集団は弱い流民集団を駆逐し、その弱い流民勢力を吸収しつつ、より大きな勢力となっていきます。
単なる流民集団では聞こえが良くないので、それぞれ、かつて秦に滅ぼされた王族を担ぎ出し、楚・燕《えん》・趙《ちょう》・代《だい》・斉《せい》などの国名を名乗って秦に対抗し始めます。いわば"看板"としてかつての王族の中から王を探し出し利用した訳で、かつての王や貴族が立ち上がって農民を吸収して秦に対抗したのではなく、農民が流民化し、食を奪い、秦に抵抗していく中で、かつての王族を担ぎ上げたのです。

『流民の目指すところは、理想でも思想でもなく、食であった』

この時代のリーダで英雄豪傑である将軍たるものは、見るからに躯幹長大《くかんちょうだい》で強悍《きょうかん》であるか、それとも神人かと思わせるような異相を持っているか、そのどちらかであることが望ましかったそうです。
項羽と劉邦はそんな時代に世に出ていくことになります。
それでは、次に、2人が歴史の表舞台に登場してくるまでの生い立ちについて少し触れてみたいと思います。

項羽のケース

項羽、姓は項、名は籍《せき》、字《あざな》は羽《う》。字とは通称の事です。
項氏はもともと楚(呉《ご》、越《えつ》とともに江南《こうなん》という揚子江以南の国々)の貴族です。秦の強勢期に楚軍を指揮して国運をかろうじて支えてきたのが項羽の祖父にあたる名将項燕《こうえん》将軍です。楚は秦に最後まで抵抗しましたが、最終的には秦に徹底的に痛めつけられ滅亡します。楚の人々の秦に対する恨みは非常に強く、当時

『三戸《さんこ》といえども、秦を滅ぼすものは必ず楚ならん』 (家が3軒だけになっても、秦を滅ぼすのは必ず楚である)
『楚の山河には秦へのうらみがわき上がっている』と言われました。

項羽はその楚の人です。両親を早くに亡くし、叔父の項梁《こうりょう》に育てられます。この叔父が親代わりの家庭教師となり、徹底して項羽を教育し育てます。項梁の組織力と知恵と才覚のおかげで資金力もそれ相応にあったと思われます。
身の丈八尺(184cm)以上を越える大男で力は鼎《かなえ》を持ち上げるほどに強く、頭脳の回転も速く、一種匂うような愛嬌もありました。叔父の項梁が秦に対抗しようとして楚を立国し、それに従う事によって世に出ますが、最初は叔父の項梁に付き従う、優れた用心棒程度にしか見られていなかったようですが、楚の勢力(いわゆる流民団の数)が膨張を続けるにしたがって、筆頭格の将軍となっていきます。
その戦い方は凄《すざ》まじいもので、常に先頭に立って敵陣に乗り込み、その強さは鬼神のごとしと言われています。敵を憎むこと甚だしい一方、味方の士卒を愛する心にあふれています。士卒は皆、項羽を尊敬し、項羽がいるから安心し、皆、項羽のようになりたいと願い、その軍団は意識も高く、よくまとまっており、全員が一直線に勝利向かっていくようで、常に勝利を確信して疑わなかったようです。
さしずめ今風にいえば、自ら先頭に立ってガンガン営業成績を上げていく部門長のようなもので、向かうところ敵なし、部員たちも良くまとまっていて、部門長である項羽と同じような意識と行動力と才能をもった集団のようなものです。
その項羽が、上司であり社長(もしくは会長)である叔父の項梁が、秦の章邯《しょうかん》将軍の戦術に引っかかり、思わぬ敗死をしてしまう事により、歴史の表舞台に立つことになります。

劉邦のケース

一方、劉邦は沛《はい》(江蘇省《こうそしょう》北部)の豊《ほう》という邑でそのうちの中陽里《ちゅうようり》という集落の人です。史記の著者である司馬遷《しばせん》は以下のように劉邦を紹介しています。

『高祖は、沛の豊邑《ほうゆう》の中陽里の人なり。姓は劉氏。字は季《き》。父は太公《たいこう》といい、母は劉媼《りゅうおう》という』

字は季というと言っていますが、季とは末っ子という意味です。太公とは"じい様"という普通名詞。媼も"ばあ様"という意味で、すなわち司馬遷の言葉を直訳すると、
『姓は劉氏、字は末っ子、父の名は"じい様"と言い、母の名は"ばあ様"という』と大真面目に述べ立てています。
更に劉邦の"邦"とは"あんちゃん"とか"にいちゃん"という意味で、劉(季)邦とは、"劉家の末っ子のアニイ"という意味になります。劉邦の面白いところは、その後将軍になろうが、王になろうが、最終的に漢王朝の皇帝になろうが、死ぬまでこの"劉家の末っ子のアニイ"という名前で通したことです。
彼は、先述のように、40代まで沛地方を常に無一文でごろつき、賭博、盗賊、踏み倒しの常習者でありました。
彼の家は、自作農家でありましたが、本人曰《いわ》く、父親の種ではないとのことです。彼の本当の父親は、人間ではなく"竜"だと本人自らが言いまわっています。それを証明するのは、彼の顔でした。竜顔だったからです。
劉邦の顔は竜に似ており、口髭《くちひげ》も竜の髭《ひげ》に似ていて劉邦の口髭の美しさは竜そのものだったといいます。
しかし、この時代もその後の時代も、"誰も竜の顔を見たことが無い"訳で、"竜の顔が見たければ劉邦の顔を見よ"と大真面目に言われても、何やらうさん臭さばかりが目立ちます。この時代、どれだけの人が劉邦の竜伝説を信じていたかどうか分かりませんが、彼がのちに漢帝国の初代皇帝になるために、竜の顔とは劉邦の顔であるという、本物の竜にとっては甚だ迷惑な話が定着してしまいます。ほとんど"まやかし"のような話ですが、真偽が不明ですのでこの辺で顔の話は置きます。
このように彼はかなり"うさん臭い"人物でしたが、妙に可愛げがあり、彼の周りには、劉邦好きの子分連中が集まってきます。劉邦は座談をするわけでもなく、情報を教えるでもなく、ただ酒を飲んでいるだけでしたが、人々は劉邦のそばにいるだけで良いようでした。

『劉邦は行儀が悪く、少し酔えば横に長くなって肘枕《ひじまくら》をし、時々癇癪《かんしゃく》を起こすとその男を口汚く罵《ののし》った。類がないほどに言葉使いが汚かったが、そのくせ一種愛嬌《あいきょう》のある物言いで、罵られた方も多くの場合傷つかず、一座もゲラゲラと笑い崩れてしまうという具合で、劉邦の芸と言えばあるいはこれが唯一の芸であったかもしれない』

そんな劉邦を押し上げた人物が、沛県の有能な役人であった蕭何《しょうか》という人物です。
最初、蕭何は劉邦の事を『大ボラ吹きで実のあるようなことを成し遂げたことが無い』と言っていましたが、次第に劉邦のもつ可愛げや子分たちに妙に慕われるところなどを見て、これは使えるかもしれないという気持ちになります。
蕭何は、今後、秦の世が乱れることを予測し、その際に、沛地方を守るためには求心力を持った"親分"が必要だと考え、その親分を劉邦にしようと画策します。結果として、彼は秘かに手をまわして劉邦を、亭長《ていちょう》という田舎の駐在所の巡査長のような職に就かせます。
その後、行きがかり上、劉邦は担ぎ上げられて反乱軍の親分になります。そして、項梁の楚軍に合流することになりますが、根っからの戦下手の事もあり、ほとんど芳《かんば》しい成績を上げることが出来ず、しばらく鳴かず飛ばず状態でした。
しかしながら、項梁が劉邦軍の数を増やすと、それなりに結果を出すようになり、"意外にこいつは使えるかもしれない"という認識を項梁は持ち始め、次第に劉邦軍の数は増えていきます。
今風に言えば、目覚ましい実績は期待できないが、営業成績もそこそこで"ちょっと無理かな"と思われるような仕事をやらせても、何故かわからないが、何となくうまくこなしている小規模部門の部門長といったところでしょうか?
但しこの時期、秦に対抗する楚軍の主役は、あくまでも項羽の方であり、劉邦は項羽の引き立て役でしかなかったのは確かだと思われます。
しかし、先述のように項梁が敗死することにより、劉邦もまた歴史の表舞台に登場することになります。

このように、項羽と劉邦の表舞台の歴史に登場するまでの生い立ちを見る限り、どう見ても項羽の方が優等生であり劉邦は脇役であったとしか思えません。
では、何故劉邦が最終的な勝利を手にできたのか?について、次章以降、その後の2人の生き様を題材に、以下の要素で比較しながらお話しさせて頂きます。
 ●ビジョンを語る
 ●現状認識力を持つ
 ●コミュニケーション能力を発揮する
 ●最適な役割分担を行う
 ●部下のモチベーションを高める
 ●公平な評価を行う
 ●部下を伸ばす育成力を持つ
 ●失敗から立ち上がる
これらの視点で、項羽と劉邦の人間としての魅力について考えていきたいと思います。
次章は、リーダーシップ発揮の第一歩"ビジョンを語る"です。どうぞご期待ください。

(注)緑字の箇所は「項羽と劉邦」(司馬遼太郎著 新潮文庫)からの引用です

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